2017年11月15日水曜日

「七人」の意味するモノ

あれま、「七人」が続きました


 期せずしてT☆Sプロジェクトは「髑髏城の七人」を11月25・26日(土・日)に、市民劇場では12月4・5(月・火)に「七人の墓友」を俳優座よって上演します。両方とも題名に「七人」と人数が明記されている芝居を上演する。

「七」という数字は、洋の東西を問わず独特の位置を他の数字と比較して持っている。それらについて言及すれば、何年の時間を費やすことか計り知れない。そこで芸能・芸術の範囲に絞って考えたい。

 この国では、「七人」といえば、「七人の侍」が思い浮かぶことにいつの間にかなっている。


「七人の侍」が思い浮かぶ御仁はきっと「七人の刑事」もあるぞ、と口をもぞもぞされていることだろう。「荒野の七人」なんてのもございました。しかし平成生まれのひとは「なんじゃ、それ」かもしれない。

なんで「七人」?


ところでどうして「七人」とはっきり人数を示したのか?それは「七人」でなくてはならなかったからではないか?もし、漠然と「侍ども」という題名だったらどうなっていただろうか。

 上記の三つの「七人もの」に共通するのは、圧倒的に強力強大な巨大組織にどう見たって勝ち目のない弱小集団が刃向かう、という大まかな対比が成立する物語だという点だ。 だから最後は善戦虚しく・・・という塩梅を想像できちゃう、という設定だ。これが中国の場合だと、弱小集団ではなく、たった一人で立ち向かう”墨子”となるところが、ウーッム凄いなぁ)

成り立つ弱小集団とは?


 つまり、「七人」というのは、最弱最小の集団だということだ。これ以上だと中途半端になり、これ以下だと集団組織として成り立たないということなのだろう。(「7」が”奇数”でしかも””素数というところに浪漫を感じる人もいるかもしれない)

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 では、それはどういう集団なのか?

 それは全滅、もしくは全滅とまでは言えないものの、それに近いダメージを受けることが決定的だと予測される集団だ。どう見ても勝ち目はない。負け目(そんなものがあるのか知らないが)なら売るほどある集団だ。そんな集団の構成員は命を失うことは致し方がないと考える。自分の将来にわたる命に希望を見いだすことができないとしたら、何を彼らは望むのか?

 彼らは命を差し出すことの代わりに、自分たちが存分に力を発揮し縦横無尽に戦いまくったことを後世に伝えられることを望むというか、それぐらいしか望むことがゆるされないのだ。最も大事な命と引き換えに自分の生きた物語が語り継がれることを欲望した。しかし、そのためには自分たちと行動を共にし、しかも最後まで生きのこる人間がいなくてはならない。

 それが「七人の侍」では、勝四郎なのである。勝四郎は未熟な侍である。それでも彼を仲間にしたのは、語り継ぐ者として役割を負った者だからなのである。六人の侍は、懸命に勝四郎を教育する。一人前の武士でなければ、自分たちの生きてきた有り様を、語り継ぐことが適わないからだ。

 そのためにこの「六人の侍」たちは、勝四郎をどんなことがあっても死なせてはならない。つまり、勝四郎という一番弱い者を自分たちのまとまる軸に置いて行動することになる。

 闘いの集団なのだから剣術の巧みな者、怪力の持ち主を雇えば良いと考えがちだが、なんとも非力な勝四郎が彼らにとって最も必要な存在となるのである。
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注 ****************************で囲まれた範囲は、
内田樹氏の「『七人の侍』の組織論」
に依って考えました。
ぜひリンクから閲覧してください。
集団形成についての示唆に富む論考です。http://blog.tatsuru.com/2010/11/22_1626.php




 そういえば、ロード・オブ・ザ・リング(指輪物語)のビルボ・バギンスと養子のフロドも「旅の仲間」であるとともに、「語り継ぐ者」でしたね。



 フロドは「指輪物語」を書き終えると、「中つ国(この世)」からエルフとともに去って行きます。


「七人」の謎


少々長くなりますが、重要のところなので、先ほどの内田樹氏の「『七人の侍』の組織論」を引用します。

**************************** 以下は引用です。

「リーダー勘兵衛」(志村喬)、
「サブリーダー五郎兵衛」(稲葉義男)、
「イエスマン七郎次」(加東大介)。
7名中の3名が「リーダーが実現しようとしているプロジェクトに100%の支持を寄せるもの」である。この比率は必須。
「イエスマン」はリーダーのすべての指示に理非を問わずに従い、サブリーダーは「リーダーが見落としている必要なこと」を黙って片づける。

その他に「斬り込み隊長久藏」(宮口精二)

「トリックスター菊千代」(三船敏郎)
もなくてはならない存在である。

自律的・遊撃的な動きをするが、リーダーのプランをただちに実現できるだけの能力をもった「斬り込み隊長」の重要性はすぐにわかるが、「トリックスター」の組織的重要性はあまり理解されていない。

トリックスターとは「二つの領域にまたがって生きるもの」のことである。それゆえ秩序紊乱者という役割を果たすと同時に、まさに静態的秩序をかきみだすことによって、それまでつながりをもたなかった二つの界域を「ブリッジ」することができるのである。
菊千代は「農民であり、かつ侍である」というその二重性によって、絶えず勘兵衛たちの「武士的秩序」を掻き乱す。だが、それと同時に外見は微温的な農民たちの残忍なエゴイズムを自身のふるまいを通じて開示することによって、農民と侍のあいだの「リアルな連帯」を基礎づける。

七人の侍のうち、もっとも重要な、そして、現代においてもっとも理解されていないのが、林田平八(千秋実)と岡本勝四郎(木村功)の役割である。

平八は五郎兵衛がリクルートしてくるのだが、五郎兵衛は自分がみつけてきた「まきわり流を少々」という平八をこう紹介する。
「腕はまず、中の下。しかし、正直な面白い男でな。その男と話していると気が開ける。苦しい時には重宝な男と思うが。」
五郎兵衛の人事の妙諦は「苦しいとき」を想定して人事を起こしていることにある。
私たちは人を採用するとき、組織が「右肩上がり」に成長してゆく「晴天型モデル」を無意識のうちに前提にして、スキルや知識や資格の高いものを採用しようとする。
だが、企業の経営をしたことのある人間なら誰でも知っていることだが(「麻雀をしたことがある人間なら」と言い換えてもよい)、組織の運動はその生存期間の過半を「悪天候」のうちで過ごすものである。
組織人の真価は後退戦においてしばしば発揮される。
勢いに乗って勝つことは難しいことではない。
勝機に恵まれれば、小才のある人間なら誰でも勝てる。
しかし、敗退局面で適切な判断を下して、破局的崩壊を食い止め、生き延びることのできるものを生き延びさせ、救うべきものを救い出すことはきわめてむずかしい。
「苦しいとき」においてその能力が際だつような人間を採用するという発想は「攻めの経営」というようなことをうれしげに語っているビジネスマンにはまず宿らないものである。
けれども、実際に長く生きてきてわかったことは、敗退局面で「救えるものを救う」ということは、勝ちに乗じて「取れるものを取る」ことよりもはるかに困難であり、高い人間的能力を要求するということである。
そして、たいていの場合、さまざまの戦いのあとに私たちの手元に残るのはそのようにして「救われたもの」だけなのである。

勝四郎の役割が何であるかは、もうここまで書いたからおわかりいただけたであろう。
彼は「残る六人全員によって教育されるもの」という受け身のポジションに位置づけられることで、この集団のpoint de capiton (クッションの結び目)となっている。
どんなことがあっても勝四郎を死なせてはならない。
これがこの集団が「農民を野伏せりから救う」というミッション以上に重きを置いている「隠されたミッション」である。

なぜなら、勝四郎にはこの集団の未来が託されているからである。
彼を一人前の侍に成長させること。そのことの重要性については、この六人が(他の点ではいろいろ意見が食い違うにもかかわらず)唯一合意している。
それは自分のスキルや知識を彼のうちに「遺贈」することによって、おのれのエクスペンダブルな人生の意味が語り継がれることを彼らが夢見ているからである。

****************************引用終わり


 大きな敵(所謂「敵」でなくてもいいのかも。単に巨大な存在という意味であれば)に対峙することを余儀なくされている最小集団ではこの七つの役割を担う者が必要だと、黒澤明監督は考えたのですね。最低人数ですから重複することはありません。何よりもユニークなのは、勝四郎の存在であり役割です。

 「人が生きるためにには物語が必要」、「人は物語を求める」と言われますが、「六人の侍」にとって、勝四郎とともに生きた「七人の侍」の物語は、どう転んでもまともな死に方をできない自分たちにとって、それぞれを支えるのに欠くことのできない「伝説」になるのですね。

 興味のある方は、以下の本をぜひ読んでください。

人はなぜ物語を求めるのか

ちくまプリマー新書

そして、ふたつの「七人」に期待すること


 さて、「髑髏城の七人」「七人の墓友」では、どのような七人として描かれるのか、そこの視点を絞って観にゆきたい。すくなくとも「単純に七人います」、ではないことを祈る。もちろん黒澤明監督とは違っていていい。
 できれば新しい視点を組み込んだ芝居であることを望む。ただ、なぜ「七人」でなくてはならないのか、そこが納得いかせて貰いたい。「七」にどう拘ったのか、そこが知りたい。




市民劇場はの12月例会は『七人の墓友』俳優座です

まずは、チラシから。

なぜ、チラシから紹介したかというと、このチラシの「ウーッム」度合いを知って欲しかったからです。

本番の公演は
このイメージとは


ほど遠い!!!

のです



のだそうです。

裏面にあるように、

「笑いと涙と共感たっぷり」


のお芝居だということです。


 制作の都合で、チラシをはやく作りすぎたのでしょう。最初の構想とは違うものになってしまったのかな?
 ですから、チラシのイメージを

払拭して欲しい


 のです。
 裏面のキャストの写真を見ても、おどろおどろしさは、

微塵も


 感じませんモノね。

 私の話が信じられない人は、

をご覧ください。

 俳優座については、俳優座のHP ウィキペディアの俳優座のページをご覧ください。








T☆Sプロジェクト 10周年記念公演 第2弾ですぞ!

『髑髏城の七人』です。そう、

あの髑髏城の七人ですよ。


 劇団☆新感線による「雪月花」じゃない、「花」「鳥」「風」「月」の4シリーズ、11月23日からは、最後の「月」が来年の二月いっぱいまで行われる。

 それと同時期に旭川では、T☆Sプロジェクトが『髑髏城の七人』を公演する。


11月25日(土) 18:30〜
11月26日(日) 11:00〜
            16:00〜 
(いずれも開演時間です)
旭川市民文化会館 小ホール



 ウーム、意図的にぶつけたとしたら、かなり大胆な勝負ですね。上演時間は2時間。

 気になる人は、劇団☆新感線の方のローチケのHPをご覧ください。

 しかし私はそれ以上に、T☆Sプロジェクトのチラシにある、

「T☆Sプロジェクト Last Stage」


 が気になるのです。

 「T☆Sプロジェクト The Last Stage」なら「最新の」となるのですが、ウームウ!

 宮崎駿風なのか、それともこれを境に、新しく生まれ変わろうとしているのか、

とっても気になるのです。




なお、『髑髏城の七人』については、ウィキペディアのページをご覧ください。






2017年10月16日月曜日

いやー、参りました『ウラシマリンク』に。

劇団ソライロのみなさんに感謝します。

最高でした。


なぜなら、ということを、ダラダラと書きます。
ダラダラですので、「嫌だ」という方は読まないでください。


私にとっての良い本とよい芝居


良い本とはどんな本か?
 普遍的な良い本のことは私にはとても言えない。あくまで私にとってだ。

 私にとって最良の本は、何を言っているのかわからない本だ。ただし、こいつはとてつもなく凄い内容の本だということだけはわかる。難解で何を言いたいのかは、今の私には理解不能であるが、こいつを理解できる能力をいつか獲得したい。そういう欲望を喚起してくれる本がいい。一読で理解できる本は、即、ゴミ箱行きだ。

 芝居も同じだ。エンターテイメントに徹した芝居も悪くはないが、観劇した後に余韻が残らないものは快感を得た記憶しか残さない。少々寂しい。
 観ているときに何が言いたいのかさっぱり掴めないのだが、目の前の芝居から眼が離せない。釘付けになってしまう。そういう芝居を求めている。
 えてして、こういう芝居は理解を超えているがゆえに、観劇後に反芻する機会が多くなる。その最たるものが、串田和美と亡き緒形拳の『ゴドーを待ちながら』だ。数ヶ月間、頭から離れずに難儀した。


久しぶりのMy 傑作作品


さて、前置きが長くなったが、今回のソライロの『ウラシマリンク』は、上記の『ゴドーを待ちながら』以来の「私の心を離さない」、世界最大の文学賞級の作品となった。
 観たのは14日土曜日、ずっと考えている。夢にまで出てくる。(こいつは迷惑だ
 
 正直の言う。観ているときはよくわからなかった。「声帯のつよい役者が多いなぁ」なんて、あらぬ事も考えていた。終演したとき隣の人に「あそこはどういうこと?」と質問したくらいだ。

 だからといって退屈していたワケじゃない。引きつけられる。ワカンナイのに。こういう矛盾した複雑怪奇な芝居や書物が好きだ。

 きっと私は「わかりやすい」が嫌いなのだ。わかりやすいは、「悪」だとも考えている。世の中そんな単純じゃないよ・・・。人のことを単純に決めつけるなよ。
 
 ・・・・・私のことはどうでもいい・・・・・。


と、良いながらも私の妄想です


ここから先の文章は、私の妄想だ。作者の意図はわからない。また、みなさんが『ウラシマリンク』をどう受け取ったかもわからない。自分がどう受け取ったかも理解できていない。ただ、かなりな頻度でこの作品のことを考えた。それが少しずつ形を為してきた。 
 それを書きます。

 もしあなたの考えと真っ向から対立することがあったら、ゴメンナサイです。
 同様に、作者と劇団ソライロの皆さまからみて、「何言ってやがる。ワカッチャないなー」ということがきっとあるということも、

 あらかじめお断りしておきます。


私の『ウラシマリンク』物語


人は自分なりの理解をするときに、勝手に物語を作ります。私も自分なりの「ウラシマリンク」物語を作りました。



 『ウラシマリンク』最大の功績は、宮島ススムの「後悔」を擬人化したことにある。人間は動く物だ。だから、時間・場所・人格を持つ。ポイントは「時間」だ。こいつが厄介だ。

 「時間」とは?と聞かれると、はたと返答に窮する。「今何時?」と聞いて欲しい。それなら答えられる。
 わかっちゃいないのだ。すこしも。本当は「今何時?」も怪しいのだ。だって、相手が聞いてきたときの「今」は、答えるときには既に過去になってしまっている。それでも平然と「ちょうど九時だよ」なんて答えたりする。
 今は面倒だ。もしこのことに疑問をお持ちの方がいらっしゃるのなら、国語辞典で「今」を引いてみてください。けっこう知らない意味があったりします。

今にこだわるの?


私たちは今を生きている。その「今を大事にしよう」なんてよく言う。「そんなの常識」なんですね。誰も疑わない。

 きっと宮島ススム氏もそう考えた。今を生きるために彼は過去を意図的に自分の都合のいいように変えてしまった。そこはユートピアだ。すべて自分が気分良く過ごせるように改変したのだから。「竜宮城」である。しかし現実世界に戻ると過去の後悔は、やはり忌まわしい過去である。だから、かれは過去を切り捨てる。

 ここに一つの問題が生まれる。
 「過去は変えられないけれど、未来は変えられる」という言葉がある。正しい。
 「過去は変えられない」のです。でも「変わっていく」ものなのです。自然と過去は変化していきます。でないと、私なんぞは恥ずかしくてとてもじゃないが生きていられない。けっこう自分の都合のいいように過去はいつの間にか変化した状態で記憶しています。意図的に変えようとなんか誰もしていない。でもいつの間にか変化している。

 ところが、宮島ススム氏はそれを意図的に変えてしまった。さらに悪いことにその後悔を切り捨てた。捨てたということは、過去の後悔の固定化です。もう変化できない。

 トラウマ化してしまいました。

それを何度も繰り返しました。

 そして「塔」が出来上がります。


 積もり積もったトラウマが「塔」を形成します。ゴレンジャーですね。
 舞台中央にキューブが絶妙なバランスで立っていました。しかも、五人のキャラクターの登場に会わせて色が変化してました。凝ってましたね。
 
 見終わって暫くしてから、やっと気づきました。みなさんはそんなことはないのでしょう。私はゴレンジャー系のTVをほとんど見ていません。だから鈍いのです。(言い訳です)

 私がすぐに思い浮かんだのは「五輪塔」でした。

上から、

空、風,火、水、地

言い換えると、

南、無、阿弥、陀、仏

でもあります。

 これらは宇宙の構成要素、この世はこれらの五つから成り立っている。つまりこの世のすべてでもあるわけです。ですからここで宮島ススム氏は思う存分世界を形成できたのですね。

竜宮城が可能だったのは、


 各色のキャラクターは、宮島ススム氏が自分の理想とする状況に合致するように創り上げることができました。そこに宇宙の一切が存在していたからなのです。

 「塔」として立っている、自立しているということは、垂直方向に重心が重なっているということでもあります。ですからこの塔は、宮島ススム氏そのものでもあるのです。危ういバランスで立っている。とっても危険な状況です。

さらば、トラウマ


 彼は、その塔を外部から眺めていました。
 しかし、かれはその塔の内部に入り込むことを決断します。アウロウのために。これが可能になったのは、「後悔」を擬人化しておいたからですね。宮島ススムの内面を語り出したら芝居と言えないでしょう。

 入ってみて彼は、すべてが自分の為したことだと気づきます。自分から切り捨てて、バラバラだったものが、リンクを取り戻したのです。

 宮島ススム氏は、トラウマから脱出しました。


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 この辺にしておきます。いっぱい考えたので切りがありません。
 説明不足のところもあります。正直書き足りない。
 最初にお断りしましたが、上記の文章はあくまで私の「妄想」です。

 ご批判もありましょうが、見逃してやってください。

謝 辞

 ツマラナイ妄想ですが、私にとっては貴重な思考です。考える機会を与えてくれた『ウラシマリンク』と劇団ソライロのみなさん、作者の隅田健太郎氏に感謝申しあげます。


トムトムキロル『猫と針』フライヤーです。

フライヤーと紹介文です。予約しなくっちゃ!



 トムトムキロルのフライヤーと三上和世さんから紹介文ををいただきました。Upするのがすっかり遅くなったことをお詫び申しあげます。

 言い訳すると、10月10日に情報をいただいたのですが、その日の朝、私のPCが昇天してしまいました。ハードディスクの崩壊でした。ピクリとも動きません。
 夕方新しい機械を購入したのですが、今日まで元の状態に戻すのに掛かってしまいました。かなりカスタマイズしていますので、時間が掛かったのです。サポートセンターさまさまでした。


前回の記事に飛びます

 さて、フライヤーです。



紹介文です

「猫と針」   作・恩田陸

人は、そこに居ない人の話をする。。。

高校時代の同窓生だった男女5人。友人に頼まれて映画のエキストラとして集まる。が、偶然にも同級生の友人の葬儀と日程が重なる。集まったメンバーは友人を弔いつつ、興味本位の憶測と、噂話と、思い出話に遡る。。。


久しぶりの本公演は、トムトムキロルにしては珍しいパターンの芝居です。
ラブ要素、薄いです。サスペンス要素が入ってるような入ってないような。そして、もやっとするかもしれません(笑)

年齢の高いチーム結成なんですけど、なんでこんなにセリフ多い脚本にしてしまったのか、焦っております(笑)
頑張りますので、宜しくお願い致します!

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 あらかじめこの作品について知っておきたい人は、下記のリンクからアマゾンに飛んでください。


チケットの予約は、
090−8273−1239  三上さんの携帯

micka-kazuyo@ezweb.ne.jp    Eメール




2017年10月9日月曜日

市民劇場 10月例会は、東京芸術座『蟹工船』

『蟹工船』です





 お馴染みの蟹工船小林多喜二です。最近はこれをストレートにやるよりは、母であるセツ(三浦綾子『母』)を通して観ることの方が多くなってきた気がしています
あ、
申しわけありません、
気がしただけです。
正確なところはわかりません。

でも、

「ブラック」
ですよね。
要は。

でも、状況が過酷です。北洋の海の船の中です。




そう、

逃げようがないのです。
連絡は無線だけ。
気軽に使えない。

そこで、どうするか?

現在の、ブラック企業、ブラックバイトの比ではありません。
でも、行き着く先は「死」かもしれない、という意味では同じです。

今を考えるためにも、観ておいた方がいいかもしれないです。


この時代のように、あからさまではない分、現在の
ブラックは
質が悪いとも言えるのではないか?

悪質であるというブラックと
覆い隠されて見えないブラック。


ウーッム。


トムトムキロル 次回公演は 恩田陸の「猫と針」

 恩田陸です。

 まあ、恩田陸と言えば、『蜜蜂と遠雷』を思い起こしてしまうのですが、三上和世三によると、さまざまな傾向を持った作家なので、比較しない方がよろしいのでは?ということでした。


恩田陸 「猫と針


     28(土)①1530分~ 1930分~

     29(日)③13時~ 16時~

*席数に限りがあるので、予約がオススメです

     料金 前売り1500円(当日1800円)

キャスト

みうら沙絵

菅原慧実

杉尾勇人

川守田政博

熊谷まり


演 出
三上和世


問い合わせ
090-8273-1239(三上)



なお、チラシ等はまだのようです。解禁されたらすぐこのブログにも載せます。


閑話休題、

さて、今回の芝居のように、以前上演されたことがあるものだったり、
あるいは、
原作が小説で脚色したもの
(たしか、キャラメルボックスだったかな?)
あるいは、
脚本の手直しして潤色したもの
だったりする場合、
みなさんは元になったものを読んだり、観たりしますか?

悩ましいです。

個人的に私は、読まないし、観ません。
もともと芝居のビデオ、DVDは観ません。
だって、
かなり面白くないんですもの。
がっかりすることが多い。

では、読む方もどうしてしないのか。

それは、芝居の価値基準を勝手に決めたからです。
それは、
ツベコベ言うな!

「もう一度、観たいか」

です。
先入観なく芝居を観て、ま、次はいいか、

となるか、


もう一回観たい!

となるか
です。

でも、本当は再度観たいのに、どうしても都合がつかないこともあります。

残念💦